かんもん北九州ファンクラブ 代表 藤城昌三(高12期)

この『八幡高校物語』は、『かんもん北九州ファンクラブ』(KKFC)の会報に2016年5月~2016年11月に渡って掲載された記事です。『かんもん北九州ファンクラブ』および筆者の藤城さんの許可をいただいて転載しています。

私の八幡高校 その3

 現在の母校は八幡東区清田町に在り、「清田校舎」と同窓会では呼んでいる。昭和39年、東京オリンピック開催の年に北九州バイパスの延長の計画が持ち上がり、大蔵谷を越える陸橋は大蔵校舎の真上を通過することになり、槻田地区へ移転することとなった。直ぐ隣は小倉北区と八幡の中心から大きく外れることになった。一方、昭和43年には高教組による校長着任拒否の正門ピケが連日報道されることになって、受験校の広域化の中、母校の衰退が始まった。受験生を抱える父兄にはピケ騒動で自習ばかりの高校生活と、通学に時間が掛かる母校を避けるのは当然のことであった。清田校舎に一番近い中学となった槻田中学の合格者は、昔は100名を超えていたがその後は10数名と、広域化の影響が顕著に表れ「秀才」しか入学できなくなっていった。それから約50年経過した現在、母校は学校、父兄、同窓会そして在校生の頑張りと更には地元の皆さんのご支援とで見事に復活してくれた。北九州に3校(八幡・小倉・東筑)が認証されている、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)指定高校となっているのがその証左と言える。
 校長先生を先頭に、関係者が母校の応援に全力投球している一つに、全国でも珍しい卒業生が講師となって行う課外授業がある。卒業生が専門の知識を在校生に教えて将来の進路に役立てようとの配慮である。私も10年前に在校生と一緒に授業を受ける機会に浴した。北九州市役所に勤務する35歳位の建築科出身のOBの講義であった。市内の建物の傾向や、前に海、後ろに5・6百m級の山々を控え、狭い土地と坂が多く難しい地形にどう対処しているかとの興味深い授業であった。私の姪の娘も2年生で同じ教室で受けたのだが、授業に感化されてか九州工業大学建築科へ進学した。影響力大であった。その授業で驚いたのは、授業中の生徒が整然としていて昔の私どもと同じ八高生とは思えないほど、声一つ立てないのである。授業ばかりでは無い。次の教室に向かう時の生徒たちが静かに移動するのである。私たちが教室を移動する時は大騒ぎしたり体当たりしたりと、廊下は喧噪のるつぼとなったものだった。否、静かになる時が唯一あった。校舎の端の女子クラスから「O嬢」が出てくると声にならぬ伝言が伝わり、今まで騒いでいた男子生徒は一斉に廊下の端に寄って彼女が目の前を通り過ぎるのを静かに見守るのであった。モルタル造りで木製の廊下を才媛で小太りのO嬢が渡ると床がたわむのがハッキリと見えたのである。何とも「ワル」のガキどもであった。現在の母校に足りないものは「ワル」かもしれない。12期生はワルばかりでは無いのことを立証してくれた一人は観世流能楽師・津村(藤村)禮次郎君である。一橋大学へ進学し学生時代から津村節子師に能を学び、卒業後師の「緑泉会」を継ぎ、今日の活躍は目を瞠るものがある。
夏のリオデジャネイロ・オリンピックの閉会式後、日本の文化を紹介するイヴェントには津村君が出演していた。毎年の小金井薪能や佐渡の公演など国内公演ばかりでなく、国の要請でロシアの大学で講義を行うなど、幅広い活躍は古希を過ぎて一層の輝きを増している。
 女子も負けてはいない。「空飛ぶ料理研究家」としてTVで活躍の村上祥子さんも同期の一人である。八幡製鐵所に勤務のご主人は若い部下たちを引き連れ、突然の帰宅は毎度のこと。彼女は若い客たちに満足して貰うため、有り合わせの材料で手早く仕上げる電子レンジを使う料理の数々を編み出し、そのレシピが評判を呼び、料理本を出版し、TVの出演回数も多くなっていった。住まいの博多と東京を飛行機で行き来しては「空飛ぶ」の二つ名を拝命するのも納得である。お二人とも才能を順当に開花させ、私たち12期生の誇りであることに異論はないが、言わば高嶺の花で12期のエヴェレスト的存在である。

 八幡饅頭で有名な「鶴屋」の三男の原田征洋君の歩んだ道は、母校の在校生も参考にできるのではと紹介したい。1年生から弓道部へ入り県大会の団体優勝に貢献し、その際の講堂壇上での壮行会も記憶しているが、何故か第2回高校総体(山口県開催)へ出場はならなかった。担当の先生が書類提出を忘れて「幻の高校総体」となったのだ。早稲田大学へ進学し弓道は続けたが、卒業後大手広告会社へ入社してからは弓道から遠ざかっていたようだ。会社を定年卒業後、地元の東京都北区の弓道連盟へ初心者として入会するも、高校総体出場レベル、早稲田でも小笠原流弓道に磨きをかけていたのでは「嚢中の錐」となるのに時間は掛からなかった。北区を代表する選手となった。母校早大へも教えに行くようになると、人柄の良さも相まって現在は早稲田高等部・中等部の弓道部監督に。後期高齢者へ仲間入りの世代を代表して頑張ってくれている。昔の高校総体出場ナシの無念を晴らすなどの低レベルの考えなど全く無かったようで、人生の的に「当てる弓」では無く「中る(あたる)弓」を常に射ていたからのことであろう。


 このほかにもファンクラブの皆さまへ紹介したい仲間のあの人、この人と浮かんで来ますが、紙面の都合上、断念します。残念!
最後に我が母校・福岡県立八幡高等学校 頑張れ!

 以上で八幡高校物語を終えます。諸般の事情により「私小説的高校物語」となったことをお許しください。
与太話にお付き合いくださり感謝いたします。(終)

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八幡高校物語 -Ⅲ
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