かんもん北九州ファンクラブ 代表 藤城昌三(高12期)

この『八幡高校物語』は、『かんもん北九州ファンクラブ』(KKFC)の会報に2016年5月~2016年11月に渡って掲載された記事です。『かんもん北九州ファンクラブ』および筆者の藤城さんの許可をいただいて転載しています。

私の八幡高校 その2

 入学式を終え、翌日から胸を膨らませて登校する新入生には予想もしなかった関所が待っていた。正門を入るとそこにはラグビーのジャージを着た上級生が列を作って待ちかまえていて、青竹を振り回しながら新入生に向かって「コラッ~、お前ら新入生に八高魂を入れてやる!」「ラグビー部へ入らんかァ~」殆どの新入生は顔を背けて逃げるように早足に校舎へ向かうのだが、中には捕まって逃げ出せないのもいた。先に触れたが、4つの中学校から合計500名以上が入学する当時の八幡高校は、各中学のトップから100番目を超えた成績の生徒がいる訳で、良く言えば玉石混交、下世話に申すと「秀才」も「ワル」も居て、個性的な生徒が多いのは納得であった。捕まって入部した生徒もいるはずなのだが卒業アルバムの「ラグビー部」を見る限りではどこにもそのような気弱な?同期生は見当たらない。全員が一騎当千の面構えで八高魂そのものだ。「ワル」の上級生は正鵠を得ていたようだ。

ラグビー部


 私には別な試練が待っていた。全校生徒参加の校内マラソンは正しくは“陸上部員を除く”とアナウンスしないと陸上部連から叱責を受けるので誤解無きよう記載して置く。君原健二先輩も在籍した戸畑市立沢見中学校駅伝部で一年から正選手だった私は中学2年で槻田中に転校したが、八幡市の中学駅伝大会では区間賞を取るレベルであった。校内マラソンも当然の如く一番であった。陸上部担任のY先生から教員室へ呼び出しがあり、入部を勧められた。その時、今でも思い出すと顔から火が飛び出るような恥ずかしい言葉を吐いてしまった。「先生、勉強で行きます」・・・。軍歌にあったと記憶しているがその一節は胸に響いた。「あァ~その顔で、その声で~」と正にその通りで、その後の行く末を見れば厚顔無恥をそのままに実行した3年間であった。
 入学後、最初の実力テストでは確か550人中15番位だった。父兄面談で母親にクラス担任のS先生は「この成績では九州大学現役合格のギリギリの成績なのでもっと頑張るように」帰宅した母親からも檄を飛ばされたのは当然であった。今にして思うのは若さと無知とバカは立派に並列しうることだった。その後の成績は正に妥当な結果を示し、実力テストの順位は右肩下がりに降下してゆくばかりで3年最後のテストは200番位だったはず。3年間を振り返ると、卒業アルバムには文芸部所属しか記載されて無いが、2年の夏は軟式野球夏の大会にライトで出場して1回戦で敗退。3年の夏は一人しかいない応援団として夏の高校野球の応援をやっていた。硬式野球部は栗原洋投手(専修大学野球部へ)を擁して北九州地区予選を勝ち抜き、平和台球場の県大会まで駒を進めた。全試合を一人で応援したが校旗も無く、我流の応援だった。八幡工業戦だったと記憶しているが、試合終了後、相手応援団十数名に取り囲まれて殴られそうになったこともあった。多分、一人の応援団に負けたことへの鬱憤晴らしだったんだろう。夏休みには長崎東高校から生徒会の代表3~4名が八高へ来訪され、木村浩人生徒会長と体育局長の私の二人でお迎えした記憶があるが、何の目的の交流だったか覚えていない。県外の高校生徒会とも交流していたことは間違いない。
 秋には運動会でやはり木村君と二人で運営に協力した。「学校のご用聞きの生徒会打破」を公約に当選した私たちだったが、先生達の要請に逆らえなかった。これも今にして思うと若き故のフライングだった。辛いことばかりを並べているようだが心沸き立つことも多くあった。男女共学とはいえクラスは別々なので女子生徒と空間を共有できることはが楽しかった。他校には無いと思える行事に花尾山(皿倉山の側、高さ351m)の下草狩りがあった。3年に一度のことで2年生の時だった。550名が朝から尾倉長電停に集合した。男子は体育のトレパン姿で、女子は日ごろ見慣れぬ軽装がまばゆく映り、遠足気分を一層沸き立たせた。
花尾山に登ると、先生の指導で鎌を振るっての下草狩りを汗だくだくで行った。育てた樹木は学校施設に使われたと聞いている。作業は昼に終わり解散となったが、真っ直ぐに帰宅する者は少なくて、映画館に行ったりと半ドン気分で目指す女子生徒の後ろを付いて行ったものだ。勿論、私も同様であった。(続く)

八幡高校物語 -Ⅰ
八幡高校物語 -Ⅱ
八幡高校物語 -Ⅲ
八幡高校物語 -Ⅳ



掲載されたブログに関する皆様からのご意見・ご感想をお待ちしています。
こちらよりお寄せください。