かんもん北九州ファンクラブ 代表 藤城昌三(高12期)

この『八幡高校物語』は、『かんもん北九州ファンクラブ』(KKFC)の会報に2016年5月~2016年11月に渡って掲載された記事です。『かんもん北九州ファンクラブ』および筆者の藤城さんの許可をいただいて転載しています。

 我が母校を語るときは「福岡県立八幡高等学校」の正式名称をつかうことと同窓会の申し送りにあるが長くなるので八幡高校(八幡中学)と表記することにする。

人文字で描かれた創立90周年記念航空写真-2009年


母校の創立と同窓会名の由来

1919年(大正八年)、初代芹沢政衛校長のもと八幡中学は開校した。当時、八幡製鐵所の拡張から八幡市の人口が急増し、中学入学志願者も増加した。また八幡市在住の志願者が既設の東筑・小倉・小倉工業に通学する不便があったということも八幡市に中学を開設する要因になった。当初は尾倉小学校の一部を校舎に、翌年は天神小学校に移転し、大正10年に大蔵校舎新設へと母校が名実ともに開校の運びとなった。
同窓会は芹沢政衛初代校長の校訓の和歌二首から「誠鏡会」と称する。
「誠」は「ちよろづの教のもととまもれ人 誠ひとつのひとすじの道」から。
「鏡」は「朝夕に磨けとてこそ仰ぐなれ 心の鏡くもりなきまで」から。
私たち関東地区の同窓会は「関東誠鏡会」となる。その昔、私が初めて同窓会へ出席した時は驚いた。背中には「誠」の一字を丸で囲う揃いの紺の法被がズラリと入口で出迎えた光景は正に東映映画を目の当たりにするようだった。芹沢校長は幕末の兵学者で洋学の開拓者である江川太郎左衛門を尊敬されておられたそうで門人の佐久間象山や桂小五郎に教えていた「敬慎第一・実用専務」(慎みて、常に陰日向なく務め行うことを第一とせよ。実践を旨とし、人や物、適材を適所に一切を生かしきるようにせよ。)に感化されて校訓和歌を詠んだと言われている。江川太郎左衛門は伊豆韮山の代官で、当時最先端の溶鉱炉である反射炉を日本で最初に韮山に築いて近代日本への道を切り開くことになったことも芹沢校長には母校が現代の溶鉱炉の製鐵所のもとにあることから一層身近に感じていたことと推察される。更には後年、八幡高校が唯一の高校野球全国大会へ出場の折、優勝目指して驀進していたのを韮山高校(その春の優勝校)に阻まれたのも何かの縁であったろうか。
八幡製鐵所の発展とともに生徒数も増えていった八幡中学も他校と同様に戦争時代に突入し、戦時色濃いものとなったが昭和15年には不世出の横綱・双葉山関が相撲部に指導に来た写真が残されている。昭和20年、22回生の卒業写真に写る校舎はカモフラージュのための迷彩色に塗られ、背後の皿倉山は高射砲陣地が置かれていたため、山は上半分、写真から削られて無くなっていた。どこの高校も同じような戦争体験であったと推察されるのでこれ以上の記述は省くこととする。

戦後の大蔵校舎

大蔵校舎時代の母校の特筆すべきことは昭和25年の第三回選抜高等学校野球大会に母校野球部は熊本工業高校とともに九州代表として栄えある甲子園出場を果たしたことである。
松永怜一三塁手(法大)・渡辺雅人投手(法大)・森下整鎮遊撃手(南海・中日・近鉄コーチ)を擁した母校チームは優勝候補として準々決勝へ順当に駒を進める。対韮山高校戦も中盤まで5点を取り楽勝かと思われたが中盤からの降雨は最終回には大雨となり、渡辺投手は球が滑り、内野は水浸しとなってエラーを誘った。当時の毎日新聞の見出しに「粘りの大逆転、韮山」優勝候補・八幡に“雨の九回裏”と無念の敗退であった。試合終了の両チームの挨拶時に松永主将は韮山・鈴木主将に手をさしのべ、「がんばってくれ」。この情景を見ていた南部忠平氏(元毎日新聞運動部長・オリンピック三段跳び金メダリスト)は感激し、母校の校長へ長文の電報を送った。「雨中の熱戦で、負けても松永主将の態度は立派だった。」と、この電報は全校生徒の前で読み上げられた。
夏の甲子園連覇を果たした小倉高校・福嶋一雄投手は三年生の時、球場を後にする時にグラウンドの砂を持ち帰り、今もその伝統は引き継がれている。松永怜一先輩が示したスポーツマンシップの握手も今や両チーム全員が相寄っての握手として甲子園の爽やかな名物となっている。そのお二人が相前後して野球殿堂入りを果たされたのはOBならずとも、地元としても嬉しいニュースであった。
松永先輩はロスオリンピックでは野球監督として金メダルを受賞し、2008年開催の北京オリンピックの日本選手団長としてIOCでも活躍されている。
ただ悲しいかな、その後、母校の甲子園出場は卒業生の夢となっている。(続く)


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八幡高校物語 -Ⅱ
八幡高校物語 -Ⅲ
八幡高校物語 -Ⅳ




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