かんもん北九州ファンクラブ 代表 藤城昌三(高12期)

この『八幡高校物語』は、『かんもん北九州ファンクラブ』(KKFC)の会報に2016年5月~2016年11月に渡って掲載された記事です。『かんもん北九州ファンクラブ』および筆者の藤城さんの許可をいただいて転載しています。

私の八幡高校 その1

 新制高校12期生は全国どこでも昭和32年の入学であることに論を待たないが、八高12期生は550名(女子は約200名)を超える生徒数であった。県立高校の普通科の高校で1学年550名を数えるのは福岡県では八幡高校のみであって、八幡製鐵を始めとする北九州工業地帯がいかに隆盛であったかが判ると云うものだ。因みに当時の八幡市の市歌2番には「焔 炎々 波濤を焦がし 煙 濛々 天に漲る 天下の壮観 我が製鐵所」とあって、日本の期待を背負って大気汚染も何のそのであった。

大蔵校舎

母校は市電・大蔵電停から徒歩で15分の大蔵川(板櫃川の上流)に沿う窪地に在った。大蔵校舎は前にグランド、後ろに3棟が並び、新入生は一番奥が学び舎だ。校舎の直ぐ後ろには大蔵川が流れていて、酒蔵「天心」から新酒の酒樽を洗った水が川へ流れ込み、水面を白く染めるとともにほのかな酒の匂いを漂わせていた。その香りは教室まで流れて来ていて、私が後に大酒呑みになったのは遺伝によるものでは無いことは明らかです。入学後、最初のイヴェントは校内マラソン大会であった。校舎から河内貯水池の往復約7キロメートルを全校男子生徒1千名が走るのは壮観だった。河内貯水池は八幡製鐵の鉄製造に必要な水資源確保の為に造られた人造湖で百年近い歴史を有し、今や北九州の観光名所の一つになっている。冬に雪が降ると授業は中止になり、全校挙げての雪中行軍の行く先もやはり河内貯水池であった。ズックでの雪中行軍は帰路につく頃には靴下は水浸しに、頭の帽子も雪玉を投げられてビショビショだったが誰も文句を言っては無かった。授業が無いことの方が少々の苦行を上回っていたようだ。
苦行と言えば厳冬期の寒げいこも辛かった。旧制中学の名残か男子生徒は全員が柔道を正課として取らされ、2月の朝まだ暗い時に校内の道場へ集まり、350名が一斉に乱取りを始めた。吐く息は白く、畳の冷たさと足指の痛さは忘れられない。雪中行軍と云い寒げいこと云い、今となっては楽しい想い出となっている。
八高の受験校区は枝光・中央・高見・槻田の4中学で生徒の9割はこの4中学出身者で占められていたが校区外の黒崎、西本町の中学や明治学園などの私立中学からも少ないが入学していた。この中学校区は入学してからも小鳥の雛が卵の殻を身につけて歩くと同じようについて廻り、その最たるものが運動会であった。運動会は紅白に分かれての対抗戦を取り入れるのを小学校、中学校で見て来たものであるが、八高は出身中学校別の4ブロックに分かれての運動会であった。各中学別に放課後、体育館などで各々の応援歌やエールを練習したものだった。私の出身中学は槻田中で、先輩の3年生の指導の下応援歌を懸命に歌ったものだ。
今にして思うと応援歌はとんでもない「インターナショナル」の替え歌であり、節々の歌詞は変えてはいたが労働歌そのものなのだ。
そう言えば入学式に歌った校歌は歌詞は3番まで記載あるのに1番と2番で終え、3番は歌わなかった。後で知ったことだが、3番の歌詞に「御国の為にいざ雄飛せん」のくだりが軍国主義をイメージしたのか誰が歌わせなくしたのか知る由も無いが、大きな違和感を覚えたのは私だけで無かったはずである。後に発生した日教組による校長着任拒否の不幸なピケ騒動を引き起こした左傾化の種が既に芽生えていたようだ。

「絶望の女神」は美男美女揃いの美術部に所属です。12期を代表する「観世流能楽師・津村禮次郎」君も同じ美術部でした。女神はどなたでしょう?


 少し楽しい話も披露しないと八高12期は苦行僧の集まりかと誤解されそうである。地元の中央中以外の中学出身者の殆どは西鉄電車で通学していた。妙な伝統があり、女子は前の扉から、男子は後ろから乗車していたと記憶している。大蔵電停を降り、前方の坂の上に「彼女」を見たその日は必ず遅刻していた。走って彼女を追い抜いて行っても無駄な努力だった。彼女には当然のことながら「絶望の女神」の称号が与えられた。本人はいつも悠遊と正門に入って行った。大物であった。(続く)



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八幡高校物語 -Ⅱ
八幡高校物語 -Ⅲ
八幡高校物語 -Ⅳ



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