独立行政法人 国際協力機構(JICA)客員専門員 アフガニスタン支援
中原正孝さん(高26期)

Profile中原正孝(なかはらまさたか)さん

1974年八幡高校卒業(高26期)
1978年東京農工大学卒業
国際協力事業団(現:国際協力機構、JICA)入団
1982年ネパール赴任(~1985年)
1999年パキスタン事務所長(~2002年)
2005年アフガニスタン事務所長(~2007年)
2008年南アジア部長(~2013年)
2013年JICA退職
以降、客員専門員(アフガニスタン支援)として現在に至る

高校卒業後、東京農工大学に進学。在学中に農業を学び、卒業と同時に、かねて関心を寄せていた国際協力分野に進むため、国際協力事業団(現:JICA)に入団。パキスタン事務所長・アフガニスタン事務所長・南アジア部長を歴任、数多くの国際経験を持つ。2013年にJICAを退職後も、客員専門員としてアフガニスタンの農業支援プロジェクトに参画中(プロジェクトリーダー)。高校時代は野球部に所属。大蔵中学出身。

11月下旬、ODAの実施機関である独立行政法人 国際協力機構(JICA ジャイカ)を訪問し、中原さんにこれまでのJICAでの活動内容とご経験を伺うとともに、今後海外ボランティアを目指す人へのアドバイスを伺いました。

世界最大規模の二国間援助機関:JICA

まずはJICAについて簡単にお聞かせください。

JICAは、外務省が行っている政府開発援助(ODA)の実施機関として、開発途上国に資金的・技術的な協力をしています。ODAが行う援助は二種類あり、ひとつは援助する国と援助してもらう途上国の間で行われる「二国間援助」、もうひとつは国連などの国際機関を通して行われる「多国間援助」です。このうちJICAが担うのは「二国間援助」で、現在約90か所の海外拠点を窓口として世界154の国と地域で事業を展開しています。JICAは世界最大規模の二国間援助機関なんです。


具体的にはどのような事業を行っているのですか。

主に専門家の派遣などを行う「技術協力」、円借款や投資などの「有償資金協力」、被援助国に対し返済の義務を課さない「無償資金協力」などですが、最近は現地の「民間セクター開発」にも力を入れています。本邦の企業と連携し、現地の民間企業や地場産業を伸ばす取り組みです。他にも「ボランティア派遣」や「国際緊急援助」など、数多くの取り組みを行っていますよ。



中原さんがこのお仕事を選ばれた理由をお聞かせください。

中学3年の時、ナイジェリアの内戦によってビアフラでは飢餓が深刻な問題になっていました。当時私は生徒会の役員だったのですが、その生徒会で「ビアフラの支援になれば」と募金活動をやったんです。「中学生が募金活動する前に国がやるべきことがあるはずだ」と、朝日新聞に投書もしました。それが国際協力に関心を持ったきっかけですね。
そのあと高校2年の時にも、エチオピアの飢餓の問題がクローズアップされて、世界的な人口増に食糧生産が追い付かなくなってくると言うことも報道されていましたから、専攻を決める時に農業分野にしようかなぁと思っていました。結果、東京農工大学に進学し、灌漑などについて学びました。
大学時代は青年海外協力隊に参加しようと思っていたんですけど、色々と考えた末にJICAに就職しました。


アフガニスタンとの関わり

中原さんがJICAで活動されてきた内容を教えてください。

30数年の中で、主には青年海外協力隊事務局と農業開発を中心とした技術協力をやってきました。
2年前に退職して客員専門員になってからは、アフガニスタンで2件の農業プロジェクトのリーダーをやっています。ひとつは稲作振興、もうひとつは農業省の組織能力向上です。私が10年近く携わっているアフガニスタンで、元々専門としている農業分野の仕事をやらせてもらってるのでとてもやりがいがあります。これらのプロジェクトは2017年まで続きますが、今後も携われる限りは携わりたいと思います。
必ずしも自分がやりたい分野にずっと携われる人ばかりではないので、私は幸運なほうだと思いますね。


北部バルフ県内の村落開発女性委員会メンバーと


北部バルフ県にて村人たちと

「今まで伝えてきた技術が活かされているな」と言うのが実感されることはありますか。

JICAは、1970年代後半にパキスタン国境に近いジャララバードと言うところで、稲作開発センターを作って稲作振興のプロジェクトを開始しようとしていました。ところが1979年のソ連侵攻で、日本人全員が退避することになってしまったんです。その後2008年に、南アジア部長だった私は、フードバスケットと呼ばれていた北方に視察に行ったんですよ、現地に稲作を広められそうかどうか。そしたら農業事務所の人が「私は30年前に日本人の専門家から稲作を教えてもらって以来、教えてもらったことがない」と言うんですよ。30年間、どこの国も支援しなかったがために消えかかっていた先人たちの取り組みをもう一度甦らせる、これはやりがいがありますよね。
ただ、治安のこともあり、我々が現場に入って教えることができないんです。なので、かつてJICAが稲作機械化の支援を行ったイランの施設にアフガニスタンの研究員や普及員を呼んで、そこで学んだ技術を持ち帰ってもらうようにしています。
あと、これは最近分かったことなんですが、カブールの北の方の県で「コシガリ」って言う日本品種の米があるそうです。30年前に持ち込まれたものなんでしょうね。


危険な目に遭ったことはありますか。

2006年に起こったカブールの騒擾事件の時ですね。アメリカ軍の車が渋滞中の車列に突っ込んで騒ぎになって、騒ぎ出した群衆に対するアメリカ軍の威嚇射撃で死傷者が出たんです。その時私はアフガニスタンの所長をしていてカブール市内の事務所にいました。当時アフガニスタン各地に50人ほど日本から専門家が派遣されていて、そこにレスキューに行かなければならなかったんですけど、事務所の目の前にデモ隊がいるので外に出られなくて。そんな中で流れ弾がガードマンの足にあたった時はひんやりしましたね。
あとは、爆発音はかなり聞きました。そのせいで音に対してものすごく敏感になっていて、日本に帰ってきてからも、街でパンクの音のような大きな音がするとすぐ体を縮めてましたね。現地にいた時の感覚がぬけるまで、時間がかかりました。
ただ、パキスタンもそうですけど、アフガニスタンってものすごく親日家なんですよ。それもあってか、身の危険はあんまり感じたことはないですね。自由に街を歩けないので、現地の方の家を訪ねると言った交流までは難しかったですけど。現地で過ごしている限りは危険なことに巻き込まれるリスクはあると思いますが、安全管理は厳しくやってましたし、移動車はすべて完全防弾で窓も開きませんし。


アフガニスタンに関わられてきた中で、今後どのような理想をお持ちでしょうか。

やっぱり平和になって欲しいですよね。
タイムマシンがあれば、60年代から70年代前半の、皆さんがよかったって言う時代のアフガニスタンに行ってみたいですね。今は本当に行動規制が厳しくて、思うように仕事ができないんですよ。
アフガニスタンは最貧国として位置付けられているわけですから、継続的な支援が必要です。ただ、2001年から急激にクローズアップされたアフガニスタン支援は、日本の外交上は開発途上国の支援ではなく安全保障・テロとの戦いの一環として位置付けられたんですよ。JICAの立場からすると、テロとの戦いの為に支援をしているわけではないですから、テロや内戦などの脅威がなくなり、我々がきっちりした仕事ができるような環境になることが願いですね。


カブール市内の小学校にて


海外ボランティアと言う選択肢

JICAと言えばまず思いつくのが「青年海外協力隊」ですが、JICAの海外ボランティアにはどのようなものがあるか教えてください。

ひとつは開発途上国で技術協力を行う「青年海外協力隊」と「シニア海外ボランティア」、もうひとつは中南米の日系社会で教育やスポーツ振興、高齢者の介護などを行う「日系社会青年ボランティア」と「日系社会シニア・ボランティア」です。どちらも「青年」は20歳から39歳までで「シニア」は40歳から69歳までです。いずれも国際協力の志を持った方々を開発途上国からの要請に基づいて派遣しています。


現在まで、どのくらいの数のボランティアが派遣されているのでしょうか。

JICAボランティア全体としては、96か国に約48,000名の派遣実績があります。
東日本大震災が起こった際は、JICAボランティアを志していた方も国内でのボランティア活動に目を向けるようになりましたが、それでも毎年1000名を超える規模での派遣を行っています。


語学力が必要な場面もあると思いますが、中原さんはどのようにして身につけられたのでしょうか。

大学時代は英語やフランス語に前向きに取り組んでいました。入団してからは、3年目に長野県にある青年海外協力隊の訓練所に行って学んだのと、最初にネパールに赴任した際に現地の言葉を半年間週二回習ったのと。ネパールに赴任した当時は20代でしたので、覚えたことは案外忘れてないんですよ。ネパールの方と街や職場であうとネパール語が出ますね。


中原さんの考える「海外ボランティアに必要な資質」を教えてください。

やはり自分が持っているものを伝えるわけですから、コミュニケーション能力は必要です。ただ、コミュニケーションと言うと語学力に焦点を当てがちですが、それよりも一緒に仕事をする上で信頼関係を築けるかが重要だと思います。語学が堪能でない専門家の方も中にはいますが、うまく意思疎通できてるんですよ。相手が何を伝えようとしているか、自分は何を伝えたいか。お互いをリスペクトして、「この人から学びたい」と思わせることが必要ですね。
あとやっぱり、人との付き合いが嫌いだとダメでしょうね。最近はわかりませんが、よく「田んぼに長靴はいて一緒に入るのは日本人だけだ」なんて言いましたね。日本人は教えるマニュアルを作るのは得意じゃないかも知れないけれど、やりながら教えることには長けていると思います。


海外でのボランティア経験は日本でも活かせるのでしょうか。

自分がいた国・地域とクラフト(工作物)やコーヒーなどでフェアトレードを行ったり、日本の僻地の山村の活性化に取り組んだり、子供たちにその経験を伝えていくために教員になったり。活かせる分野は必ずあると思いますよ。
ただ、帰国後の再就職先がなかなか難しいんです。いったん外に出ると、志に経験が重なっていますから、価値観が変わったりもっといろんなことをやってみたいと思うようになったりします。なので、求人はあっても自分のやりたいことではないということも多くて。
でも、それでもいいからっていう人もいるかも知れないですよね。大切なのは、自分が行った期間で何をして、何を持ち帰って、それを日本でどう生かすかだと思います。

これから海外ボランティアを目指す方にアドバイスをお願いします。

若い協力隊の人は、「教えに来た!」と意気込んでくると壁にぶつかるんですね。「教えることよりも学ぶことの方が多い」と。でもそこで自分が学んで帰ってきたことによる満足感や「教えるって簡単じゃないんだ」との思いを持って、もう一回大学行ったり海外留学したり、国内で仕事をやりなおしたり。
一方でシニアが相手側から期待されるのはやはり技術ですし、伝える側も期待する部分も強いですよね、「自分が持ってきた技術を生かしてほしい!」と。技術を持っていれば持っているほど、それに見合う環境や制度に対して期待をするものですが、その両方がマッチすれば満足度がすごく高くなると思います。
JICAの事業はたくさんありますが、日本について考えるのはこの事業だと私は思います。現地で家族の強い絆に触れ、自分の会社や生まれたところはどうあるべきかと、外に出てみて改めて顧みることがあるのではないでしょうか。


最後に同窓生へのメッセージをお願いします。

私は健康を維持してきちんと仕事が続けられるように、運動を続けています。休日は大体ジムに行って、走って、鍛えて。年に一回はハーフマラソンを走りたいなぁと思っています。やっぱり心も体も元気でいられるために、努力するところはしないといけないんじゃないですかね。自分の好きなことをやったり職務を全うしたりするためには人の助けを借りなきゃいけないことが多いですが、自分でできることはそこなんじゃないかなと思いますよ。


本日はお忙しい中ありがとうございました。


【編集後記】

  • 今回伺えたのは中原さんの経歴のほんの一部でしたが、各地で経験されたことやご自身の役割(使命と言ってもいいかも知れません)に関する思いなど、一つ一つが凄く印象的なお話でした。情勢不安な中で業務をされるのは想像を絶する大変さがあったのではと推察しますが、お話の中では寧ろ楽しまれて業務にあたられているように感じました。
  • 現在でも毎月1週間から10日、アフガニスタンに行かれているそうです。ドバイ経由で24時間ほど。かなり体力が必要だと思います。本文中にもありますが「健康を維持してきちんと仕事が続けられるように」と運動を続けられているとのこと。とても素晴らしいことですね。
  • 中原さんは第24回関東誠鏡会総会(2004年)の実行委員長だったそうです。リーダーシップを遺憾無く発揮されたことと思います。また、お酒を嗜まれるそうで、パキスタン時代には蜂蜜からお酒を作って楽しまれたとのことです。最近は「ザル」を通り越して「ワク」と呼ばれてるのだとか。ぜひ一度ご一緒したいです。




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