中23期 近藤昭治さんに聞く


今回は時代をぐっと遡り、大先輩の近藤さんにお話を伺ってきました。83歳という年齢を全く感じさせないご様子に感服しました。


生年月日と出生地を教えていただけますか?

昭和3年7月25日生まれです。
当時の枝光駅のすぐ傍で生まれました。
中学3年の時に強制疎開で東台良に移転するまでは枝光に住んでいました。そこも隣家に焼夷弾が落ちて延焼しました。

子ども時代について教えてください。

7人兄弟の長男で、弟が2人、妹が4人、枝光小学校に通っていました。家が駅前広場の隅っこにあったので、その広場でよく遊んでいました。服装はもう洋服でした。
父親が製鉄所に木材を納入していて、戦前は楽な暮らしでしたが、戦後は本当に大変でした。戦中はそこそこありましたが、戦後の方が食糧難でした。

八幡中学に進学しようと思った理由は何ですか?

市内だったからです。家から近い普通科の中学というと、八幡中学しかなかったですから。中等学校の進学率は30%位だったと思います。弟2人も八幡高校に通っていました。妹は八幡高等女学校(今の八幡中央高校)に通いました。

中学に進むということで、女子から憧れの目で見られるということはなかったですか?

小学校から男女は別クラスでしたから 、それは全くなかったです。女性と話をするのは、社会に出るまでありませんでした。勤労奉仕の時は女学生も来ていましたので、見かけることはありました。

八幡中学ではどんな毎日を過ごしていましたか?

昭和16年、アメリカとの戦争が始まった年に入学し(12歳)、終戦の年に卒業(16歳)でしたので、中学時代は日本がずっとアメリカと戦争している時代でした。中学の制服も私の年から変わり、黒ではなく国防色となり、帽子もカーキ色の戦闘帽でした。

靴は牛革が入手困難となり、豚革も高価で、鮫革の靴が普及していました。破れ易く踵のゴムも粗悪品で、鉄の鋲を踵に打って補強していました。

通学時は、八幡中学の4km圏内は隊列を作って歩くという規則があり、電車通学していても学校から4kmの所で電車を降りて歩かなければなりませんでした。しかしそれは体力づくりにとても役立ったし、今でも歩くのが全く苦にならないので、私は良かったと思っています。

3年生までは授業がありましたが、4年生からは軍事教練や労働奉仕でいろんな労働に借り出され、学校に行った記憶がありません。まず岡垣村糠塚という所で、1週間くらい麦刈りの手伝いをしました。夏からはいろんな工場に配属され、私は陣山の近くの黒崎窯業という耐火煉瓦を造っている工場で働きました。芦屋の飛行場拡張作業の手伝いもしました。一学年250人全員で行ったと思います。そこには韓国から強制労働で連れて来られた人達もいて、非常に劣悪な環境でひどい待遇だったようです。また宮崎の小林中学の生徒も来ていました。

八幡製鉄所でも働きました。今の東田地区です。買いだめしてある鉄鉱石がクレーンの届かないところに山積みになっており、それをクレーンの届くところまで人力で運ぶ作業でした。鉄鉱石って本当に重いんですよ。すべて人力で大変な重労働でした。溶鉱炉のカスで埋め立てた洞岡(くきおか)という所でも働きました。昨年、兄弟で八幡の思い出の場所を巡った時に、洞海湾にこの洞岡がまだあって懐かしかった。
また、皿倉山の頂上に高射砲陣地があり、その拡張工事にも行きました。高射砲を打つ演習も見ました。特殊な軍事訓練として、津屋崎の海岸辺りで、ボートや和船を漕いだり、手旗信号などの海洋訓練もしました。
空襲があるといろんな場所に手伝いに行かされました。私は八幡消防署に配属されたので、爆弾で火事になった所に消防車に乗って駆けつけたりしていました。同じように枝光小学校に配属されていた同級生が、中国の成都から飛んできたB29の爆撃で、昭和19年6月に亡くなりました。それが同級生の初めての戦死者でした。

中学生活で一番楽しかったことは?

楽しかった思い出はないですね。働いたことしか記憶にないくらいです。体力賞検という体力テストがあり、そのひとつに手榴弾投げがありました。要するに遠投ですが、ボールではなくて手榴弾を投げて測定していました。小さな鉄の塊で重かったです。

40キロの土嚢を担いで20m位の所を周ってタイムを計るというのもありました。40kg担げないと級外で、私は痩せていたので30kgしか担げなかったです。ニックネームは線香でした。

2000m走や100m走などもあり、上級、中級、初級、級外(甲乙丙)という判定をしていました。夜間行軍というのもありました。大蔵校舎~河内貯水池~紫川~小倉~大蔵だったでしょうか、鉄砲を担いで夜中に歩かされました。昼間は12里(48km)行軍でした。黒崎~木屋瀬~遠賀川駅の南まで歩き、軍神として祀られていた人の家に敬礼しに行きました。そこは真珠湾攻撃の時に特殊潜航艇に乗ってハワイで亡くなった人の実家でした。部活動は1、2年の頃はありました。私はやっていませんでしたが、野球、テニス、バレーボール、バスケットは練習していましたからあったと思います。

好きな科目は何でしたか?

英語、物理、数学が好きでした。八幡中学では英語の授業は決しておろそかにはしていませんでした。英語の先生同士が小声で英語で会話しているのを聞いたこともありました。敵性言語という言葉は知っていましたが、学校ではそのような雰囲気はありませんでした。朝礼で米軍がフランスに上陸したという話も聞きました。生物、国語、漢文も好きでした。国語と漢文の授業時間は多かったですね。

強制労働で借り出されるまでは、どの授業も丁寧にきちんと教えていただきました。教育の質は決して落ちてはいませんでした。

工作の時間に八幡製鉄の技術者が来て、鋳物、鍛冶屋、旋盤などの教育をするというのがありました。八幡中学は製鉄所から随分援助を受けていたと思います。私は痩せていて力が無く、大きなハンマーが上手く振れなかったのでよく怒られました。でもそういう経験は、私が後に技術者になるうえで有益でした。教練の軍人は嫌いでした。非常に頭が固く、全然合理性がありませんでした。

当時は神がかり的なことが多かったんですよ。右翼の講演など私は大嫌いでした。私の入学した年に中学が5年制だったのが戦時特例で4年制に変わり、5年生と一緒に卒業しました。上の学校に進むのに競争率が2倍になったわけです。ただし、中学でも勉強していませんから学科試験が成り立たない。面接中心の入学試験で、私が受けた明治工業専門学校(今の九州工業大学)では、「今次大戦で感銘を受けたことを書け」という問題があったのを覚えています。

八幡中学生活の中で誠鏡会の存在を実感したことはありましたか?

全く知りませんでした。
48歳の当番幹事のときに初めて知って、以来旧交を温めています。

八高が甲子園に行ったときの事は覚えていますか?

私が卒業してからのことですが、新聞で知りました。
6歳下の弟の同級生でプロ野球に入った人がいましたよ。

八幡中学と八幡高校の校歌は同じでしたか?

全く同じです。
八幡市歌というのもあり、2番の歌詞は公害を謳歌するような歌でした。
♪炎延々波濤を焦がし 煙もうもう天に漲る 天下の総監八幡製鉄所…

八高の後輩達にいま伝えたいことは?

執念深く、何でもいいから諦めずにやるということですね。マイナス要因が後でプラスに変わることもあります。大事なのは上手くいっていないときにふてくされないことだと思います。私は若いときにおちこぼれの期間がありましたから、「人間万事塞翁が馬」を実感しています。おちこぼれていたときには「この仕事はあまりおもしろくない」と思って努力をせず遊びほうけていました。後に部署を異動させられて、そこでの仕事がおもしろく、多少の努力をして成果が出たときに悟りました。仕事がおもしろくないのはその仕事や周囲のせいではなく、自分自身の努力が足りなかったのだと。今の気持ちで努力をしていたならば、おもしろさを発見できたはずでした。相撲界に「銭は土俵の中に埋まっている。掘り出すのは自身次第である(稽古せよ)」のような言葉があるそうですが、全くそうだと実感しました。

今までの人生で一番感動したことは?

頑張っていた仕事が上手くいったときです。「あ~出来た!」というときが一番嬉しかったですね。
現在のNTTの研究所にいたときのことです。NASAが実験衛星を上げて、その衛星を使う実験プロジェクトを募集するというのがあり、うちの研究所が郵政省と手を組んでやることになり、その重要な部分の設計を任されました。最初は「まあ、いいか」とやって失敗しましたが、2~3か月かけて、一つ一つをきちんと整備し、一つ一つの部品をちゃんと理論通りに動くようにしていったら、非常に複雑なシステムでもちゃんと動作するという体験をしました。見事に成功して、世界で初めて、アメリカと日本を結ぶ、太平洋を横断する特殊な形態の通信方式を提案し、それの中心になるシステムの設計をやらせてもらい、それが成功したときは一番感動しました。

一つ一つをきちんとやれば複雑なものもちゃんと動くよ、という経験をしたのが非常に嬉しかった。
それで自信が付いたのが40歳頃です。遅かったけれど執念深くやって良かったと思います。

今の目標は?

今の目標というのは特にないですね。正規の仕事を定年になったとき「あ~、やることはやった」と爽快な気分でした。あとの人生は付録だと思いました。最近は正月が来るたびに人生の締め切りが近づいたと思います。しかしありがたいことに、薬は飲んでいますが、検査値は全て正常範囲です。運動は特にやっていませんが、知り合いから請われて、今年の7月から新しい職場に就いており、毎日電車に乗って階段も歩いています。40歳頃はジョギングをしていましたね。元々酒もタバコもやりませんし。家でのんびりしたのは通算一年位で、ずっと仕事をしていますが、それは健康維持とボケ防止と、自分の持つ技術を伝える社会奉仕のためです。私は、電気の通信関係の技術者だった叔父の影響で、小さい頃から「子どもの科学」などを読み、好きな道に進み、それでずっと暮らしてきたから幸せだと思っています。どんな道であれ好きな道に進むことがやはり重要ですね。



今でも技術アドバイザーとして求められている近藤さんは、語り口がとても優しい方で、戦時中の大変な体験も、「社会のいろんな構成の階級の人達との付き合いができ、それぞれの考え方に触れることができ、現代では経験できないようなことを体験させてもらった」と穏やかにお話されていました。合唱団で知り合った奥様とは、バッハ音楽祭を聴きにドイツまで出掛けたこともあり、よく一緒に音楽を聴くそうです。50年前フランスに住んでいた頃は、オペラ座の合唱団に混じって歌ったこともあるそうで、様々な経験をされてきた近藤さんのお話は、大変興味深く、時間の経つのも忘れて聞き入ってしまいました。
長時間のインタビューにお付き合いいただき本当にありがとうございました。
是非、来年の関東誠鏡会にはお越しくださいませ。





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