総会を終えて数日後、今年の総会で最年長のご出席者、中23期の田中正博先輩より、実行委員会へ大変素敵なメッセージを頂戴しました。

ドキュメンタリータッチで綴られた総会の様子、ユーモアと愛情あふれる、田中先輩のねぎらいのお手紙に感謝でいっぱいです。この素敵なお手紙を是非会員の皆様へご案内したい旨を、田中先輩に申し入れたところ、快くご承諾をいただきました。ここに、田中先輩の素敵なお話を皆さんにご紹介します。
     

 
第32回関東誠鏡会総会実行委員長
 三橋正司様
  アンケートのつもりで認めていたら、つい長くなり遅くなりました。
今回は大変刺激的でした。
48才頃(約40年前)の担当幹事の時を思い出しています。

匆々

田中正博 拝

旧制八幡中学校23期生 昭和3年生まれ(馬齢84歳)


第32回関東誠鏡会総会が大盛況であったこと洵におめでとうございます。
手渡された貴アンケート用紙を握り締めて持ちかえっていたので、先ずは参加できたことを感謝し、感動?を・・・と思い立った次第です。

アンケートは、Q1-9まで総じて大変良かった、です。超一流のホテルオークラ東京であったこと。そしてアスコット・ホールだった事。私事馬齢のため諸動作が鈍いので、1時間半前に到着、前会長らに夫々挨拶回り、受付やトイレを確認、校章(徽章)入りの特製金太郎飴など所望して開会を待ちました。

ポット出の田舎者らしく、アスコットタイをおもむろに取り出して付けてみたり、猛暑の折なので暑苦しいので外してみたり、いやが上にも、出席前からいささかテンション向上気味でした。

粛々と第一部~第二部へと会・諸事が進められるうち、就中、 圧巻は、「松永怜一」「森下正夫」御二方様の巧まざるトークは秀逸でした。大体野球放送などは実況と言えども第三者が報ずるもので、当事者が生で報じられるのは不能で、滅多なことでは聴く事はできません。62年前の聴く耳慣れた小倉中学との雨中の決戦、滑るような感触で、掴まれたボール、しかも華麗なるサードとショートの際どい球捌きや二塁からコーチがいない三塁を抜けようとする松永さん、一塁への打球の行方を察しながら・・・・と、ここで小生はウイスキーを一服、テレビの実況でも録画でも観ることができないスリル満点の場面を、こちら(小生)は馬齢を忘れて衰え行く想像力をいやが上にも掻き立て、聴き耳をそば立てて固唾を呑んで聴き入りました。

終戦後の昭和26,7年頃の事でした。さすがに殿堂入りの尊い方の稀有なお話、感動のひと時だったと心に深く刻まれ、末永く心に残る事でしょう。
盛り上がる宴の中、元南海ホークスの猛将、森下さんは、私共の席へも親しく笑顔で廻って来られ、豪快な丁寧・笑顔のご挨拶があり感心しました。

翻ってホールを一望、奥まった所までびっしり、各12名に設えられた円卓が約30数席、総勢四百数十名、幹事さん方合わせて四百五十名か?、東京に集う 誠ひとすじのみちと、くもりなき心の鏡の集いが、一つに結ばれたスゴイの一場でした。東京における人口の離合集散の素屑の一つ、だと田舎者が独り合点でした。

やがて宴はたけなわ、出場・参加者が全員が主役のような雰囲気のとなる中、恒例の罵声を張り上げる「校歌斉唱」となり熱気溢れる最高の盛り上がりとなりました。

終宴が近づいて、かねて司会者から、最高齢(23期生)という事で締めくくりの万歳三唱の音頭をと、僭越ながらご指名を承っていましたので、23期の同僚・近藤昭治君と打ち合わせもせずに緊張しながら壇上に立ちました。無事役目は終えたものの、省みて折角の「盛り上がった宴」をさえぎった様な無念さが残りました、オペラやミュージカルのように高揚した余韻を愉しむカーテンコールのような工夫がなかっただろうかと、恥じております。

以上、終わります。
   


下って

追記:

愚輩ら23期こと二三(ニイサン)会は(昭和16年3月入学~昭和20年3月卒業)[奇しくも太平洋戦争勃発の年の春入学、終・敗戦の年の春卒業]、そして戦時特例で1年短縮4年卒業、1年上級の22期生と合わせて卒業という憂き目でした。終戦まで学徒動員で工場勤務や出征兵士の留守宅農家への奉仕活動などで、学校での勉強は3、4年時は殆どありませんでした。こんな中、終戦後の大混乱の・困窮を経て、吾ら同期生の中では、数は少ないが社会的栄誉者として以下の諸兄を申し添えます。

迎 静雄(元・九州工業大学長・平成15年瑞宝重光賞受賞(物故)、 原田 利夫(元・新日本製鐡常務を経て合同製鐡社長(物故)、 木原 文吾(元・小倉井筒屋本社社長)


田中先輩、素敵なメッセージを本当にありがとうございました!(高34期)