八幡高校の大先輩である松永怜一先輩が、2022年5月12日にお亡くなりになられました。アマチュア野球の指導者として多くの選手を育て、ロス五輪の野球(公開競技)で代表監督として金メダルを獲得、その後は日本オリンピック委員会(JOC)選手強化本部長などを歴任、2007年に野球殿堂入りされました。

松永さんは、これまで八幡高校の唯一の甲子園出場、昭和25年(1950年)のセンバツ大会のチームの主将でした。母校とのつながりは大変深く、八幡高校の再びの甲子園出場を見届けずに鬼籍に入られたことは、心残りの一つだったのかもしれません。


松永怜一さんといえば、2012年、筆者が総会当番期の時、松永さんと同じく甲子園に出場された(故)森下整鎮さんとの62年ぶりの再会の時を思い出します。その時のお二人のお話をまた聞きたくなって、お二人のご講演シーンの録画を久しぶりに見てみました。


第22回選抜甲子園大会 雨の準々決勝は、9回サヨナラ負け!


昭和25年(1950年)春の選抜甲子園大会準々決勝、八幡高校の相手は、静岡代表韮山高校。 松永さんの流ちょうなお話ぶりと森下さんの無骨なお姿が重なり、60年の月日を感じさせないラ イブのような解説、5-2で八幡高校のリードで迎える9回裏、雨は土砂ぶりに。松永さんがサード、森下さんがショートで鉄の三遊間といわれたが、内野は雨で水浸し。土砂降りでボールも良く見えない状況で、ショートに転がって森下さんのバックホーㇺの返球はバックネットに・・・・・ 走者一掃で逆転サヨナラ5-6で韮山高校の勝利!


韮山高校、鈴木直樹主将と甲子園での初めての握手

9回土壇場での逆転サヨナラ負け、とても悔しい事だったでしょう。
土砂降りの雨の中、松永主将は「僕らの分も頑張って」と、韮山高校の鈴木直樹主将に握手を求めました。今では見慣れた甲子園でのエール交換、甲子園大会で選手同士が握手を交わしたのは、この時の松永さんが最初だったといわれています。自然に差し出した手だったのでしょうけれど、とても勇気がいることだったと思います。そして、韮山高校は甲子園で初優勝を果たします。


この時のことを伝えたのは、毎日新聞の南部忠平さん


総会での松永さんのお話では、この時のことが語られています。雨で甲子園の観客席にはお客さんはだれもいない状況でした。でも、雨の中そんな握手のシーンを見ていたのが、当時の毎日新聞の運動部長、南部忠平さんです。(南部さんは、1932年のロス五輪の三段跳びで金メダルを獲得された方です。松永さんもロス五輪での金メダル獲得と運命的なつながりを感じますね)
南部忠平さんはとても感激し、新聞の記事にするとともに、八幡高校、韮山高校の校長へ長文の電報を送ったそうです。八幡高校では4月の始業式の日に「雨中の熱戦で、負けても松永主将の態度は立派だった。」と、この電報は全校生徒の前で読み上げられたそうです。



2019年のセンバツでは、横浜高校が「握手拒否」をしたとして、ネットで炎上!しかしながら、「神奈川と東京は地方大会で握手をしないように」と指導もあるようです。コロナ禍では握手やハイタッチ、エール交換は禁止。また、2022年のルール改正で、高校野球の雨天時のルールも変わります。試合が打ち切りの場合、翌日以降に「継続試合」を行う、降雨コールド・降雨ノーゲームの制度は廃止となる。今の時代では森下さんの悪送球も起こらないのかもしれません。



松永さんたちの時代とは、変わっている野球環境ですが、この時代に松永さんのお話をもっと伺ってみたかったと思います。本当に野球を愛し、いまも天国から八高の甲子園出場を願っていることとあらためて思います。心からご冥福をお祈りします。



生前、松永さんは韮山高校にも訪問されています。
甲子園の握手は、八幡高校、韮山高校両校にとっての誇りです。





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