松本さんとの出会いは平成16年ころで、私は当時麻生会長のもと事務局長を務めていた。会長提唱にて、活性化委員会を立ち上げた。メンバーは各期に亘って幅広い参加があることを望んでいた時に、松本さんはまだ当番幹事を経験していない期からの委員としての参加だったので、事務局として非常に期待していたことが思い出される。

彼との意外な接点は、大学のグリークラブの後輩が同じ著作権協会に勤めていたことだった。演奏会で使用する楽譜の著作権とはなんぞやなどの話に広がっていくなど、彼からレクチャーを受けることがあった。彼と話をすればするほど、関東誠鏡会は将来のリーダーを得たとの確信に喜んだものだった。

さらに近年、東京福岡県人会の「同窓会協力委員会」から派生的に生まれた筑紫丘高校同窓会を主体にした「就活の会」に私の代わりに関東誠鏡会を代表して参加して、昨年1年目から八高後輩の大学生が2名参加するなど実績を挙げた。
今年も「就活の会」2年目に関東誠鏡会から講師を出すなど、今後に大いに期待していただけに、早すぎる別れは残念でならない。

松本勝義さんのご冥福をお祈り申し上げます。 合掌
高10期 森 猛

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活性化委員会は高26期が当番期のときに約1年間、発足していました。当番期だった私(山本)は、先輩方ばかりの中で緊張しており、当番期より若い松本さんが参加されていることをとても心強く感じていました。
その3年後、松本さんは当番期の実行委員長として活躍していました。
高29期の当番期が終わった翌年には理事として、昨年からは副会長として、関東誠鏡会総会の壇上で誠鏡会についての説明や広報活動の報告など、わかやすい解説をされていた姿が、思い出されます。

いつも、当番期の兄貴分として、的確なアドバイスをされていました。
2月の幹事会のときは、一緒に関東誠鏡会を盛り上げましょうとおっしゃっていました。
今後、何かある度に、なんで居ないの?まったく!!ときっと怒りたくなると思います。

ご冥福をお祈り申し上げます。
事務局次長 高26期 山本寿美子

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松本さん 原稿一覧
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2年前の広報委員会発足以来広報委員長として、陰になり日向になり、 常に私たち広報委員メンバーを励まし、温かく指導してくださいました。
いま、私たちは「頼りになる兄貴」を失い、ぼう然としています。
これから、広報活動をより活性させることが、松本さんの
ご希望に応えることだと信じます。
松本さん、どうも有難うございました。

広報委員一同

下記に、松本さんが広報委員長として執筆した原稿の一覧を記します。

●震災と向き合う『マガンが帰ってきました』
http://kantoseikyokai.pya.jp/mainweb/?p=2137
●「芸術祭」に行ってきました。
http://kantoseikyokai.pya.jp/mainweb/?p=2253
●そうだったのか!江戸吉原!!延千代ライブ
http://kantoseikyokai.pya.jp/mainweb/?p=2180
●関東誠鏡会 2011年度活動報告~第32回関東誠鏡会総会から~
http://kantoseikyokai.pya.jp/mainweb/?p=2238
●36年前の郷土訪問飛行-後日談-
http://kantoseikyokai.pya.jp/mainweb/?p=2176
●「祝」八幡高校放送部全国大会出場
http://kantoseikyokai.pya.jp/mainweb/?p=1730
●福岡県人会主催「就活を応援する会」報告
http://kantoseikyokai.pya.jp/mainweb/?p=2157

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3月8日(金)、15時30分、「まかせておけ。来週又電話するよ。」
「すみません、おねがいします。」
それが松本君との最後の会話になるとは。
“就活を応援する会(県人会)”の世話役代行の打ちあわせです。

その日、20時30分、「代理出席のお申し出、たいへんありがとうございます。当日は15時に昨年と同じ会場に集合です。時間割と各種資料(完全ではありませんが)を添付します。」その後、「先ほどのファイルより新しいファイルがありましたので再度送ります。よろしくお願いします。」と2度にわたってメールが入りました。
3月11日(月)の妻の葬儀を前にして、これだけの心配りを出来る者が他にいるだろうか。

翌週3月14日(木)は衝撃でした。信じられませんでした。訃報連絡の翌日15日(金)に、八高サッカー部の川村・有薗・矢野君と室井事務局長・長田理事・井手理事と私とで新橋で落ち合い、何か手伝えることはないかの協議、役員へのメール送信、あっという間の週末でした。

3月18日(月)通夜の帰り、東筑の結城さん、若松の小田さん、室井さんと蕎麦屋に寄りました。打ち合わせしたわけでもないのに、森先輩、藤城顧問、長田理事・井手理事が、その後34期の方々が吸い込まれるように入ってきました。
松本君のことを語り、偲びたいのは皆同じです。結城さんの松本君への賛辞が嬉しく、ついつい遅くまで,杯を重ねてしまいました。

今はただ、あなたに出会えたことを誇りに思います。
松本君ありがとう。本当にありがとう。

関東誠鏡会会長 高18期 篠原政美

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この冬は異変といっていいほど長く厳しく、寒がりの私にとってまことに辛いシーズンだった。記録破りの豪雪にみまわれた北国の人々の嗟嘆をよそにひとり喜んでいたのはスキーヤーの友人で、私より年長の彼はシニアの競技会にも出場する本格派でその体力ははるかにわたしを凌駕している。

これも天の仕業か、厳しかった冬を抜けたこの春、暖気はソメイヨシノの開花を平年にくらべて異常に早めた。そして私の同期生である松本勝義はそんな異様な春に、なんの前ぶれもなく早すぎる生を終えたのである。

高校時代サッカー部での三年間を除けば、彼とのかかわりが深まったのはやはり誠鏡会の当番期になってからである。
彼は八高卒業生にとって人生半ばでの最大のイベントである関東誠鏡会当番幹事の大変さを予見したわけでもなかろうが、それに先立つ十年ほど前から自らが音頭取りとなって関東在住の同期生たちによびかけ毎年恒例の同窓会を開催してきた。
そして実際に総会の準備段階に入ったとき、われわれは当然のごとく松本を実行委員長に決め、彼のリーダーシップと段取りにしたがって動きはじめた。
会合場所の用意をはじめ、スケジュールの進行管理や役割分担決めまでほぼすべてにわたって松本が主導した。
こういうと松本ひとりがなにやら独裁的に私たちを動かしたように聞こえるかもしれないが、もちろんそんなことではぜんぜんなく常に控えめで穏やかに話し、みんなの意見をよく聞いて、みんなで決めてみんなで行動することを最優先とした。
会合はいつも明るい雰囲気であり対等な立場での闊達な議論であふれていた。
われわれの中心に彼がいたあの準備期間こそが、いまではもっとも懐かしくかけがえのない記憶として私のなかに残っている。
そしてあらためて振り返れば、高29期主催の関東誠鏡会総会の成功は松本の存在なしにはありえなかった。
これは追悼としての文飾ではけっしてなく、掛け値なしの私の実感である。

松本を失ったいま、われわれは呆然とし途方に暮れているといっていい。
たとえば同期名簿の管理やお金の出納記録すらバックアップがない。われわれはこれら実務的なことすべてを松本任せに押し付けて顧みず、この期に及んで慌てふためく衆愚であったのだ。
さぞあの世で冷笑していることだろう。いや彼ならやはり優しいまなざしの心配顔で見守っているのか。
松本は声高でもなく恩着せがましくもなく、それがじぶんでも楽しいからやっているんだという姿勢のなかに、「だれかのために」というモチーフを静かに沁みこませることができる人格のひとりだった。
こういうひとはそう多くはいないのだということを、なぜそのひとを失ってから気づくのだろうか?

高29期でもすでに何人かの同窓生が鬼籍に入った。
その知らせはそれぞれの衝撃をもって伝わったのだが、兆候のない突然の訃報がもたらす虚無感は底の知れない暗い淵に臨んだような恐怖を伴っている。
のほほんとした日常のなかの裂け目にギロリとよぎる禍々しい宿命の相貌。その順番はかならずやってくる。
すなわちわれわれはいままさに死に向かって生きているという自明で厳然たる事実を、松本勝義の早すぎる死はある異様さとともにわたしに刻していった。
(了)

高29期 川村 孝英