この話は、36年前にあった、今は亡き岩猿先生への恩返しのエピソードです。

正確な期日は定かではありませんが、昭和50年の10月~51年の1月頃の事です。当時、私は宮崎の航空大学で飛行訓練の日々を送っており、次の仙台課程に進む為、福岡空港を経て中四国の空港を巡り宮崎空港に戻る1泊2日の航法試験を受ける事になっていました。

私はこの試験で、2日目の朝に福岡空港を離陸後は、八高上空を飛行して中国地方に向かう様に計画を立てました。その当日の朝、天候状況も良好で計画通りに飛行出来ると分かったので、急いで岩猿先生に電話をし、

『先生、突然ですみません!今、福岡空港に居ますが10時過ぎに八高上空を西から東に飛行します。赤い色の飛行機です。もし可能でしたら空を見上げて下さい』

と伝えました。

先生は、

『10時過ぎに来るんやね!分かった、待っとるよ!』

と少し興奮した口調で電話を切られました。

その後、福岡空港を離陸し八幡上空に向かう途中、私は先生が一人で空を見上げてくれているだろうな...と思ってました。

ここからは八高に近づきつつある八幡上空での教官との会話です。

私 :教官、眼下の町が私の故郷の八幡です。
教官:おお、そうか。
私 :正面に見える山にある白い建物が母校の八幡高校です。
教官:そうか..。うん?屋上や運動場に沢山の人が居て、こちらに手を振っている様に見えるが。
私 :確かにそうですね!教官、実は...出発前に恩師に上空を飛行すると連絡しました。
もしかしたら恩師や生徒達が出迎えてくれたのかもしれません!
教官:そうなのか。よ~し、分かった。降下して上空を旋回しよう。
私 :えっ!!教官、本当ですか? 有難うございます!

八高上空に向けて急降下中、屋上や校庭や運動場に沢山の生徒達が居て、こちらに手を振っているのがはっきりと視認出来、感激しました。

この後、ギリギリの低空まで降下し、八高上空で旋回飛行に入りました。教官は、左席に座っている私が下を見易い様に、左に深く傾けて旋回してくれたので、手を振っている生徒達を真下に見る事が出来ました。如何せん速度が速い為に、残念ながら岩猿先生の姿は確認出来ませんでしたが。

5回位、旋回した後、郷土訪問飛行終了の挨拶として翼を左右にそれぞれ3回振って飛び去りました。

今となっては事の経緯は分かりませんが、多分、岩猿先生が校長先生に全校での出迎えを懇願し、校長先生も承諾してくれ、授業中にも関わらず、出迎え可能な生徒達を外に出してくれたのではないか?と思うのです。
(当時の在校生は高28期が3年生、高29期が2年生、高30期が1年生ですね)

後年、人づてに、訪問飛行の終了後、岩猿先生が「桝本が来た..桝本が来た..」と、うわ言の様につぶやいていたと聞きました。

後日談になりますが...
航空大学卒業時は第一次オイルショックによる航空大不況の状況下、パイロット採用の道が閉ざされていた為、一般職として入社し(今に至っていますが)、昭和58年には博多にある福岡支店に異動して勤務していました。
そんなある日、八高のOBルートで岩猿先生の突然の逝去を知らされ、告別式に駆けつける事が出来ました。
先生との縁(えにし)の深さをしみじみと感じた次第です。

又、航法試験の最中にも拘わらず、八高上空を旋回してくれた今は亡き教官にも頭が下がる思いで、「恩師」という言葉の深い意味がやっと分かって来た今日この頃です。

この写真のE33型の機体で飛来しました。
胴体の横や下面は、赤と白の鮮やかなコントラストですので、色で覚えている方がいるかもしれませんね。

今回、郷土訪問飛行を思い出させてくれた同期の津田、「母校の空へ、恩師の元へ、空から感謝」という目頭が熱くなる様な暖かい言葉を作ってくれた渕上、メルマガに取り上げてくれた寿美子さんに感謝、感謝です。

高26期 桝本康夫

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36年前の郷土訪問飛行~後日談~

たしか三年生の時だったと思いますが、国語の先生が何かの理由で休まれて、岩猿先生が替りに授業をしてくださった時のことだと記憶しています。「受験勉強は大変だと思うけれど」と言って、岩猿先生はこんな話をしてくれました。

自分の教え子に飛行機のパイロットを目指した男がいて、この前、訓練飛行で八高の上空にもやってきた。

おおよそ何時ごろ八高の上空を飛びます、と前もって連絡してきたので、その時間に生徒と一緒に屋上に上がって空を見上げていたら、飛行機が飛んできた。その日は訓練飛行を祝うかのような快晴で、最初は豆粒のようだった。飛行機がだんだんと大きくなって爆音を響かせて八高のうえにやって来た。何回か上空を旋回して、飛行機は翼を振って飛んで行った。その間、私も手を大きく振って声援を送り続けたよ。

彼が三年生の時に受験のための勉強をしている皆に言ったことがある。「みんなはいいなぁ。とにかく勉強して学力を磨きさえすれば合格の可能性が上がる。俺は航空大学校を受験してパイロットを目指すつもりだが、パイロットは視力も一定以上ないとなることができない。だから、みんなのように何時まででも気の済むまで勉強をすることができないんだ。学力を上げても、視力が落ちたら、パイロットにはなれないからね。自分の努力だけではどうしようもないんだよ。」と。

彼の言葉にだれも何も言えなかった。

その彼がいまパイロットになろうと訓練飛行でやって来た。
彼に聞こえるはずはないとわかっていたけど、大声で声援を送らないではいられなかったから、精一杯大きな声で声援を送ったのよ。

大体、こんな話だったと思います。

推測ですが、先生の話は、おそらく前の年の話で、当時の三年生(高28期)が屋上や校庭で桝本さんを出迎えたのではないかと思います。自分の努力だけではどうしようもない受験に挑んだ先輩がいるという話がすごく印象に残って、忘れられませんでした。

私は八高でサッカー部に入り、毎日グランドで汗を流して、テクニックで及ばない実力を体力と運動量で埋めようと頑張って、三年の7月いっぱいサッカーをやっていました。当然成績は振るわず、大学受験にどうやって挑めばいいのか分からないでいましたが、この話を聞いて、自分なりの努力をやるだけやってみよう、と思ったような気がします。

その“彼”が桝本さんだったんですね。桝本さんとは10年くらい前に関東誠鏡会で知り合ったのですが、私の八高時代にすでに私の生き方に影響を与えていてくれたとは・・・驚きとともに私のたった一度の岩猿先生の授業の機会に先生が桝本さんの話をしてくれていたことに縁を感じます

高29期 松本勝義





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