今年の総会に参加したとき、当番期にあたる33期の方の配慮(?)なのか、私の目の前には、2年前に卒業したばかりの女性が二人席についていました。
そうなると、久しぶりの同期との再会はそっちのけで、彼女たちと大いに話が盛り上がり楽しいひとときを過ごすことができました。
「君は何年卒?」
「私は、平成22年卒の62期です。」
「へぇ~、じゃあまだ学生さん?」
「ええ。先輩は?」
「あぁ、僕らはね高校30期、昭和53年卒」

総会等で、初対面の方と話すときは大抵、卒業年と卒期が一つのセットとして話題となるものです。 大正8年4月に開校して以来、92年目を迎える来春の卒業生は、平成24年卒、高64期になります。

当然のように思っていた、「卒業年と卒期のセット」ですが、92年の歴史の中のある一時期において、その関連性が混沌としたことがあるのをご存じ時でしょうか?
そう、終戦直前から戦後数年にかけての混乱期の中で卒業された先輩方には、いろいろなケースが存在するのです。

旧制中学校は明治32年の勅令で「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と位置づけられ、修業年限は5年間でした。
ところが、太平洋戦争末期の昭和20年の3月には、昭和15年入学の中22期生と昭和16年入学の中23期生が同時に卒業しています。戦争が激しさを増す中、授業どころではなかったのでしょうか、中23期生は4年で無理やり卒業させられてしまいます。

昭和20年8月に終戦を迎え、翌21年の卒業生は更に混迷を深めることになります。
昭和14年入学の中21期生2名、昭和15年入学の中22期生10名、昭和16年入学の中23期生43名の方々が、昭和21年3月に卒業しています。これらの方々は、旧制中学を修業される前に、陸軍・海軍関係諸学校に進学し、終戦後復員して、中24期のクラスに復学されています。

旧制中学の修学年は、一旦4年に改められたものの、再度5年制が復活し、中24期生については、4年卒業か5年卒業か、各自の選択に任されることになりました。
それぞれ色々な事情があったことでしょう、結局、77名の方が4年制を選択して昭和21年に卒業し、136名の方が、翌22年に卒業されています。

昭和21年4月には、アメリカ教育使節団報告書によるGHQの指令があり、戦後の新しい社会に適した学制に改編することを目的として学校制度の大規模な変更、「学制改革」が推進されていきます。
主な内容は6・3・3・4制の学校体系への変更、また義務教育の9年への延長でした。 その際、学区制、男女共学制、の方針が打ち出されました。 通学区域を地域制に限定されたのはこの時からです。また、旧制学校では進学できる学校は男女別に違いがあり、教育内容も大きく異なっていたことから、男女間の格差の是正を企図されました。

GHQの指令を受けて、昭和22年4月から学校教育法が施行され、新制の八幡高等学校は、翌23年に発足します。
旧制中学から新制高校へ移行する際に、いろいろな措置が取られたため、入学期は同じなのに、卒業年が異なったり、旧制中学制卒と新制高等学校卒が混在する結果となります。
まず、暫定措置として併置中学校が設置され、昭和20年、21年に旧制中学に入学した2年、3年生は併置中学校の生徒となり、昭和18年、19年に旧制中学に入学した、4年、5年生は、旧制中学の卒業か、新制高等学校の2年生、3年生への進級を選択することになりました。

昭和18年に入学された方のうち、227名が中25期として昭和23年に、95名の方が、高1期として昭和24年にそれぞれ卒業されています。
この年は旧制中学卒を選択された方が圧倒的に多かったのですが、翌年は状況がガラっと変わります。昭和19年に入学された方は、25名が中26期として、206名の方が高2期として、それぞれ昭和24年、25年に卒業しました。

一方、併置中学校に移行した、2年3年生のうち、71名、158名の方が、併1期、併2期として、併置中学校を卒業され、また、それ以外の方は、新制高校に進学し、高3期、高4期として、昭和26年、27年に卒業しています。
それと同時に、高3期、4期には新制中学から受験入学した方もいらっしゃいます。

昭和26年は、日本が、サンフランシスコ講和条約に調印し、新たに戦後からの復興を目指して歩き始めた年です。そんな中、旧制中学から新制高等学校への移行は完全に終わり、昭和26年に新制高等学校に入学した方々は、高5期として、昭和28年に卒業を迎えました。ここに新制高等学校への移行が完全に終わったのでした。

中23期 近藤昭治さんに当時の様子を伺うことができました。「同窓生・この人」No.2もご参照ください。





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