中央町、いや、中央区生まれです。
(当時周囲は皆そう呼んでました)

小学校(槻田)へ上がるまでの間、丸物百貨店の裏で当時両親が営んでいた割烹料理屋(屋号「山荘」)の二階間で育ちました。
大谷の中央保育所で3年保育の後、上本町の花園幼稚園に通いました。
(どちらも今でもあるようですね、ビックリ!)

3つ、4つ、5つの頃は中央区商店街が我が庭のようで、当時の店は柳小路と呼ばれた路地先にあって、店の玄関から七色仮面のお面を被って風呂敷しょって商店街へつッ走れば、眼前に珍海楼というちゃんぽんのうまいお店がありました。
脇の路地では焼鳥の珍豚美人(チントンシャン)や光ちゃんから煙がもくもく、商店街のロータリー前で(当時はリッパな噴水でした)毎夕6時に紙芝居が開いて、お店のテレビでフィリップ君を見るか、どっちだ!と思案投首。

商店街には吉の湯という銭湯があって、風呂帰りに名画座の看板を見に行くと、向かい側のベレールという真新しいレストランからおいしい匂いが流れていました。
アンパンならどんばる堂、メロンパンなら木村や、最中の亀屋は風格あって子供ではおいそれと敷居を跨げませんでした。

丸物は6階建てで、毎日行って、蛇腹トビラのエレベーターで昇ったり下りたり、6階の大食堂はさすがに近寄り難く、屋上は遊園地、5円でおみくじを運んで来てくれるカナリヤ(インコではなかったような…)がいたり、金網越しに眼下には西鉄電車が右往左往、道路向うに市民広場(現「勤労者会館」)が広がって、その上には帆柱山がスモッグを抱えてそびえておりました。

毎年11月は大起業祭。
商店街から大谷体育館にかけて、それはそれは、豪華絢爛、日本中の夜店が一堂に集まったような、椎の実やら松ヶ枝餅やら、地球ゴマやらゴム鉄砲やら、木下大サーカスに金網オートバイと何やらおどろおどろしい布絵を囲った見世物小屋が、もう、『欲しい物はみんなここにある』と舞い上がる四日間でした。

昭和30年代初頭の中央区商店街には、夜勤明けの製鉄所のおじさんや着流し姿の酌婦さんが角打ちで朝も早から賑わって、

夜は夜で、溶鉱炉の炎がスモッグが覆う夜空をオレンジ色に染めて、おでん鍋と燗付け器の甘い匂いが漂って、拡声器から鳴り響くチャンチキおけさと淫靡に輝くネオンサインの焼けこげる音が・・・

確かに、そこにありました。


高25 山本英人