昨年7月に新しいお札が発行されて、新札の渋沢栄一さんも見慣れてきましたね。
さて、みなさん、日本で初めてお札の顔となった方をご存知でしょうか?
1881年(明治14年)に発行された改造紙幣(政府紙幣)に肖像が使用されたのは、神功皇后(じんぐうこうごう)です。

明治の人達にはよく知られた存在だった彼女ですが、北九州には神功皇后にまつわる伝承が多く残されています。今回のしっとぉ?は、そんな皇后伝説を取り上げてみたいと思います。 ​

元祖日本のワーキングシングルマザー

神功皇后は、応神天皇(第15代天皇)の母。仁徳天皇(第16代天皇)の祖母、おばあちゃんにあたります。神功皇后の伝説は「三韓征伐」にかかわった由来が多いですが、伝承地は、神功皇后にまつわる神社や、腰掛けた、と伝わる石など由来になった地名が多数、北部九州には3000個所の伝承地があると言われます。

「神功皇后伝説」の多くは『古事記』と『日本書紀』に語られています。
西暦200年頃の出来事なので、実際の歴史の真実か?はわからないところもあります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)を父にもつ仲哀天皇(神功皇后の夫)は、熊襲(くまそ:九州南部)平定を目指し九州に入ります。
ある日、福岡の香椎宮で、仲哀天皇が神を招くために琴を弾いていると、神功皇后に神がのり移り、「西の方に国があり、そこには輝くような金銀財宝がたくさんある。私がその国を服属させてあげよう」と告げました。ところが仲哀天皇はそれに反対し、琴を弾きながら突然亡くなります。仲哀天皇は神の祟りで亡くなった!ということで、妻の神功皇后が「三韓征伐」へ向かうことになりました。

物語は、豊浦宮(下関)から香椎宮(福岡)に遷宮後、仲哀天皇が崩御し、独り身になってしまい、シングルで異国の戦い「三韓征伐」に遠征、皇后が再び北九州に戻って来た時には皇子(応神天皇)と一緒でした。そして八幡宮の本宮となる宇佐神宮へ向かう、とお話はつながっていきます。

史実か否かは判りませんが、北九州地方にはいろんな伝説があります。
その中でも有名な伝承地を一部ご紹介します。

初上陸は、皇后崎(八幡西区)

八幡西区にある「皇后崎」という地名は、神功皇后が上陸した場所と伝えられ石碑が建てられています。皇后崎に上陸して、岡田神社に参拝し、一宮神社に泊まりし船団を補強したとされています。

新羅遠征の帆柱山(八幡西区)と皇后杉


新羅に向かう船団の帆柱を作る為、木を切り出したので帆柱山と命名されました。
帆柱山、権現山北面の約4ヘクタールにわたり杉が林立しています。中でも巨樹老木は、樹齢400年という長い歴史を生き抜いてきた神秘的老木。神功皇后の伝説にちなんで、皇后杉とよばれています。

更にくれたり、皿倉山(八幡西区)と皇后国見岩


皿倉山の名前も皇后の言葉に由来すると伝えられています。皿倉山に登った神功皇后が大蔵に下山するときには日が暮れていて「更に暮れたり」と言ったことから、この一帯が更暮山または更暗山と呼ばれ、それが更倉山、皿倉山に変化したと言われています。

皿倉山頂の東斜面の岩場が国見岩です。 太古の昔、神功.皇后がこの岩場に立って、現在の遠賀・小倉・下関方面を. 望見されたという伝説によるものです。

航海の安全、岡湊神社(芦屋町)/埴生神社(中間市)


仲哀天皇と神功皇后は洞海湾から響灘に出て、芦屋の岡湊神社に寄られました。これは古事記にも記載されています。芦屋町から中間市まで10Kmの陸地ですが、当時は海から繋がって古遠賀湾と呼ばれていたようです。中間で船の安全を祈るとは?ですが、岡湊神社の後、埴生神社に着かれ、航海の安全を祈り船魂を祀られたといわれます。
・岡湊神社
 https://ashikan.jp/sight/okanominatojinja/
・埴生神社
 https://nakamap.jp/viewpoint/jinjyabukkaku.html

勝山勝田神社(八幡東区) 織幡神社(宗像市)


皇軍の旗竿を切り出したのが勝田神社、織幡神社では、神功皇后と竹内宿禰が紅白の軍旗を織らせたと伝わります。


応神天皇に乳を与えた、到津八幡神社(小倉北区)乳山八幡宮(八幡東区)


三韓征伐後にこの地に船で到着し、応神天皇に乳を与えたという伝説が残る場所で、「到津」の地名の起源とされています。板櫃川の水で産湯を浴び「産川」と呼ばれるようになったそうです。「産川町」という地名が残ります。

皿倉山での国見の後、大蔵谷を降りてきて、皇子応神天皇にお乳を与えられたのが大蔵の乳山八幡宮となります。
・到津八幡宮
 http://itouzuhachiman.com/
・乳山八幡宮
 https://chiyamahachiman.jimdofree.com

若松恵比寿神社(若松区)、魚鳥池(若松区)


仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐のため船で移動するとき、「天皇様は外海をお進み下さい、皇后様は波静かな内海をお進み下さい」と奏上して、皇后の船が内海の洞海湾を進んだとき、急に船が動かなくなったので武内宿禰が海底を調べさせたところ、光り輝く玉の石があがったという。この石こそ、海神が皇后の聖旅を守る御印の霊石であるとして、勅命を奉じて祀られたのが恵比寿神社の由来。
・若松恵比寿神社
 https://wakamatsu-ebisu.jp/

洞海湾の奥のほうで干潮となり船が進まなくなり、皇后はものすごく不機嫌になりました。
崗県主熊鰐(おかのあがたぬしくまわに)は、びっくりして魚池をつくり、魚や鳥をたくさん集めて皇后をお慰めしたところ、皇后はとても喜ばれたといわれています。そして、そこは干潟に魚と鳥が集まる池になったとか?。


北九州から少し西へ、宗像から福岡へも足を延ばして・・・こちらにも伝説地

岩田帯の起源、鎮懐石八幡宮(福岡県糸島市)


神功皇后は、新羅と戦うため懐妊のまま朝鮮半島に遠征し、帰国後に応神天皇を出産したといわれます。出産を遅らせるために石をお腹にあて冷やした、腰に石2個(この石は鎮懐石と呼ばれ)を巻きつけてお腹を冷やし、出産を15ヵ月まで遅らせたと伝えられています。という伝説は、安産の象徴、岩田帯の期限ともなっています。
・鎮懐石八幡宮
 https://www.chinkaiseki.com/

何事にも打ち勝つ開運の神様、宮地嶽神社(福津市)


神宮皇后が出帆の地、宮地嶽山頂より大海原を臨み天神地祇(てんしんちぎ)を祭壇に祀り「天命を奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運を垂れ給え」と祈願の上船出されたとあります。宮地嶽の宮地浜から船出したその船の帆柱は、、帆柱山から切り出されたものと言われます。
「何事にも打ち勝つ開運の神様」として多くの方々に信仰されるようになりました。
・宮地嶽神社
 https://www.miyajidake.or.jp/


日本三大八幡の筥崎宮は、神功皇后が応神天皇の臍の緒を入れた筥を砂浜に埋めたといわれ、この神社を筥崎宮というようになったそうじゃ。。。
・筥崎宮
 https://www.hakozakigu.or.jp/



神功皇后ゆかりの踏み跡は、福岡・北九州にまだまだたくさんございます。
皇后の由緒を訪ねて、御利益を被る旅はいかがでしょう?





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